sábado, 3 de janeiro de 2009

2a. Carta Aberta (Toyosato G 22-12-2009)

2009年12月22日
12月初め、情報コーナーに自分の感想を張り出した。いろいろの反応があった。「長いので、読む気にならない」という人もいた。人との出会いもあった。それが、これからにつながっていってほしいと願っている。「つづきはあるのか」と言う人もいた。「自分の内面のことを人前にされけ出すのはもうやめよう」と思った。

三重図書館で「蛙は古いに飛び込んだか」(長谷川翔著)を借りた。一気に読んだ。「蛙は古池に飛び込んだ」となんとなく解していることをしらべていく内容だった。じぶんのこころのなかで続いていることを書きたくなった。
9月、鈴鹿の研鑽研究科学研究所の小野雅司さんに来て貰ってやった集中研では、「研鑽とはどういうことか」からしらべた。じぶんのなかには「研鑽とはこういうこと」というのがあった。そこを「研鑽できる状態になって研鑽する」というとき、「研鑽できる状態とはどういうことか」からしらべた。いままで、こんなテーマを研鑽学校でしらべたことって、あったかなあ。思い出せない。「霊位とはどういうことか」は考えてきた。そこは、いつもわかったような、わからないような。中途半端な気持ちが残った。「自分の思いを外したら、事実とか真実が観えて来る」最後は、どうもそこぐらいで納めてきた感じがする。暮らしの場では、なんとか思いを外す努力をしてきたように思う。
「研鑽できる状態とはどういうことか」を調べていく過程で、しらべていけた地から、自分の内面や周囲の人、状態、社会、自然との関連がどうみえてくるか。
特講のテキスト。「ヤマギシズム社会の実態」ここで表現されていることって、どういうことだろうと思ってきていることがいくつかあった。今の時点では、いくつかというより、一字一句「どういうことか」とそこを調べたい気持ちがわいてくるのを感じる。
ー工場等でも、組織そのもにも間違ったものがありますが、各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対起こるものでなく、却って工場は反映し、自己を豊かにします。
ー理想社会には、「親愛の情が絶対条件」であることは、会の趣旨として強調している如くです。
ー社会機構にも水路・道路に比すべきものを設け、何れを通るも各人の自由選択に委し、決してその人の意志を曲げないのです。
ー・・・何を言われても悪感情を残さない事、それから、誰もが思ったことを、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為を忌憚なく批判します。
ー誰とでも喧嘩しない、仲良し一家の寄り集まりです。
ー幅る辱かしさに気づいて、他に譲り度くなる、独占に耐えられない人間になりあうことだと決定しています。
ー国境を無くす最上の絶対間違いない方法は、外交交渉でもなく、無論戦力でもありません。
など、など。
一つ一つ、「どういうことか」と自問すれば、「今はこう思っている」というのがある。他の人の解を聞けば、また「どういうことだろう」となっていくかもしれない。
「私意尊重 公意行」もずいぶん考えて来た。「みんなの考えでやろうとする個人の自由意志でやったらよい」という表現もある。「山岸巳代蔵全集七巻「愛和ー山岸巳よりの第一信集より」のなかに「ハイハイ研鑽について」という分がある。そこでは「公意」というものについて述べたあと、「少数の異見こそ大切に」が続いてでてくる。
ここではこう書いてある。
ー少数の不満、異説をふみにじっては大変な間違いや過樹を造る事になる。そうするには、各々の意志・意見を出し合う事(研鑽会)。多数の意見で、少数の・無口の人の意志を圧倒しないこと。ただ一人の意見をも尊重し、これほど言い続けるには、なにかあるのじゃないだろうかと、みんなでその人をも尊重し、これほど言い続けるには、なにかあるのじゃないだろうかと、みんなでその人の得心いくまで聞く態度でなければ、本当の研鑽ではない。たとえ無学の老婆であろうと、こどもであろうと、世すね人や狂人と言われている人なれば、なおさらこちらが謙虚になって聞く態度。「アレは文句屋だ、不満屋だ、気違いだ」と決めて、軽く片付けないで、少数の異見こそ最も尊重にしてきくことである。

これを写しながら、このことは自問しているのか、他に問うているのか、ずっと考えた。これまでのじぶんや、いまの自分はどんなだろう、そういう気持ちがわっと出て来るけど、おっと、その前に、ほんとのほんとは、自分がどうだったかとか、他の人はどうだったかの前に、「これはどういうことか」をしらべたい、一人でもしらばたいし、関心のある人としらべたい、そこがいまの、僕の本心ではないか。
ここまできたら、またでてくること。「しらべるということは、どういうことか」もっと言えば、「しらべられる状態になってしらべる」というとき、「しらべられる状態とはどういうことか」をしらべるのでは。これでは、どうどうめぐり。

「古池」の句を「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」とする解釈はいまさ疑う余地がないとされてきたらしい。僕もそんなに思ってきた。でも、それに、「とうなんだろう」と思ったひとがいた。そこから、究明が始まった。

「研鑽」「公意行」「みんなの考えでやる」「仲良し」「ともにやる」それらの一句、一句について、もしその解が逆さまだったり、思い違いだったりしたりしては、大変じゃないかというのが、自分の青春をかけ、人生を賭けて打ち込んできたもの。だれかが「どういう解でいいものだろうか」と言い出したとき、だからこそ「どうなんだろう」とならないだろうか。いま、その扉の前でたたずんでいる、われ。
自動解任期の研鑽はあろ何日か。
冬の夜や灯あかあかジャズ演奏 (了)