sábado, 11 de dezembro de 2010

キブツカブリの変貌

月刊緑健文化 日本共同体協会

1997年5月15日 


キブツカブリの変貌

かつてキブツカブリに滞在した日本の友人たちへ (Rony Frost)


かつてキブツは、共同一体をモットーに創設されました。キブツ創設の時代、イスラエルの一般社会と同様、キブツの生活水準は低く、私達はわずかな物を分け合って生活していました。キブツメンバーの生活は常に他のメンバーたちと一緒で、夜には、食堂や労働調整室、総会、パーテイなどで皆が顔を合わせていました。それが、あなたがた日本人グツープが私達のキブツをを訪れた70年代前半のキブツの姿でもありました。

年月と共に私たちの生活水準は向上しました。テレビ、電話、パソコンなどが各家庭に導入され、一般しゃかいの物質優先の風潮が私達の生活に入り込み、理念が次第に壊れていったのです。

イスラエル経済は、80年代にの半ばに危機にみまわれました。それはインフレ、金X政策の不備、株の暴落といった形で国家全体を襲い、キブツの負積もまた、増加しました。この時期、イスラエル経済は大打撃を受け、中小、儒細企業の多くは破産しました。キブツは何とか生き延びたものの、キブツの財政もまた、急激に悪化したのです。キブツはこれらの影響を受けながら大きく変貌しました。


労働分野の変化


かつてキブツのメンバーは、メンバーの個人的希望よりも、共同体全体の要請を優先させ、キブツが最も必要とする仕事場で働いていました。 もし事務職や教師が足りないのならば、総会の総意に基づいて特定の個人にその仕事に就くことを要請する原則もありました。あるいは総会などの場において、メンバー同士が話し合い、ある人にその仕事を受け入れてもらおうように説得する、といったことも行われていました。 年月と共に、そうした原則も変わりました。今日では、全体よりも個人の意志や希望を優先するという傾向が強まっています。それによって、人々は前向きになり、自分自身を成長させ、満ち足りたきもちを持つことができるというのです。

それはそれで良いことです。けれども、そうした個人の考えが浸透することによって、いくつもの代償を支払わねばなりませんでした。共同体を維持する上で必要な仕事に誰ひとり関わろうとしない、といった事態が生まれてくるのです。今日では、多くのメンバーが外での楽しげな仕事を探してます。そのために、キブツ内での地道な仕事を担うメンバーの数が足りなくなるのです。具体的に見れば、バナナやアボカドの畑で働く人や、食堂の責任者を引き受けようとするメンバーが減少しつつあります。どうしたらいいのでしょうか?

キブツは単純労働、重労働、そして責任を求められる役職にも、外部から賃金労働者を雇い入れることになったのです。かつて、私達キブツカブリの誇りは、雇用労働者に頼らないということでした。あくまでも自分達の労働によって生活してるのであって、決して他者を搾取しないということでした。キブツのこの思想には、歴史的意味があります。

かつてヨーロッパの各地で、ユダヤ人は嫌われていました。それわ一つに、ユダヤ人の担う仕事にようものでした。当時はどこの国でも、下層階級は農民が占めていました。その上に工場労働者がいて、商人や金x機関、知的職業についてる人々は少数派でした。ユダヤ人は特に、商人や金X業についてることが多かったために、一般の人々からは嫌われていました。パレスチナの地にやってきたシオニシトたちは語ったものです。「新しい国を作ったら、自分達は大地に足をつけて、自らの手足で働いて生きていくのだ」と。

しかし今日、その思想は忘れられようとしてます。私達にはもう、大地の上に生きることが大切なのだという思想はありません。現在、キブツの中である仕事に適したメンバーが見つからない場合、実に簡単に、外部から人を雇ってしまいます。キブツの外で働いているキブウツメンバーが果たして充分高額な給与をキブツに持ち帰るでしょうか。そういう人もいますが、薄給の人もいるわけです。ある人の給与が薄給で、街で独立した生計を営むことは困難であっても、キブツにいる限り、家族が食事に困ることはないし、子供たちはきちんとした教育を受けることができます。

「カラビン」(カブリ経営の工場)は、かってメンバーだけで労働力を賄ってきた、まさに我がキブツが誇りとする工場でした。しかし今日では、カラビン労働者の90%が外からの雇用労働者で、カブリのメンバーはほんの少ししか働いていません。世の中の経済事情により製品の注文が減り、工場経営はX地に降りました。辛うじて経営が成り立っている状態です。

景気が悪くなったとき、工場の責任者は、まず古くからのメンバーに伝えました。「もうあなた達に働いてもらなわくても構いません」 こうしたことを彼らに伝えるのは辛いことです。

そして更に、一般のメンバーにも次のように伝えました。「あなた達に働いてもらいたくありません」と。何故でしょうか?それは雇用労働者に比べて、キブツメンバーの姿勢に甘えがあったからです。夜中のシフトはいや、重労働もいや。それに昼間から自分の用事のために職場を離れる人達がいたりしたのです。例えば幼稚園に自分の子供の様子を見にいくとか、診療所に行ったりとか、その生き返りにちょっと、自宅に寄ったりとかいった具合です。雇用労働者の場合は、こんの問題は起こしません。もしも彼らがそんなことをしたら、自分が解任されることを知っているからです。

カブリの場合、雇用労働者のほとんどがロシアからの移民です。それは低賃金での雇用が可能だからです。こうして年月の経過と共に、工場の経営側と雇用されている単純労働者との間の階級差も生まれました。雇用労働者が多くなるにつれて、失われれいくものも多くなります。ここは自分達のキブツであるという気持ち、自分達の手足でキブツを支えているのだという気持ちは薄れ、共同体における連帯感も少なくなっていきます。

一般に雇用労働者が8時間以上働くと、残業手当がつきます。そうすると、メンバーのなかには、「彼らは残業手当をもらっているのに、どうして自分はもらえないのか」という声も生まれ、残業手当を要求するメンバーが出てきたりもします。かつてキブツにおいては、私たちは必要があれば今よりももっと働いていました。そしてそれは、自分個人の利益を得るためではなく、キブツ全体の工場のためでした。多くのメンバーが、キブツイコール自分自身だと感じていたものです。

今日ではそのような意識をもって仕事をしているひとはほとんどいません。自分と自分の家族のことを優先させてものごとを考える人たちが増えてきているのです。

カブリでは今日、各部門の独立と自立を促しています。ある部門の赤字を別な部門の黒字で補うのでなく、各部門がけっして赤字を出さないように稼がなければならないのです。

かつてのキブツでは、各部門の責任者、会計職、労働調整係りなどの仕事は、数年ごとに担当者が代わっていました。これは、より多くのメンバーが共同体に対する責任感を共有するためのシステムでした。現在でも基本的には、このローテーション・システムで運営されてます。けれども、専門知識や専門技術を要する分野では、かんたんに人を交換することができないために、人事の固定化の傾向が生まれています。

私は学校の教師ですので、長い休みに入ると、当然労働時間が減ります。そこで私は何か仕事があればよいと思い、探すのですが、なかなか適当な仕事が見つかりません。まず、わたしが何かの仕事についたとしても、私がその仕事に慣れていくあいだに学校の休みは終わってしまいます。ですから、あえて私のような短期間しか働くことのない人に仕事を覚えてもらう必要がありません。それに各部門で雇用労働者が増えた結果として、私がどこかの仕事につけば、その期間は誰かの労働力が不要となります。私のたった二週間の労働のために外から雇っている人を解雇するわけにいかないでしょう!

以上の労働に関する変化は、どこのキブツでも起こっています。その変化はキブツごとに違いますが、方向性は同じです。また、キブツメンバー間に収入差のあるキブツもぼつぼつ出始めています。カブリではまだそれほども大きな問題となっていないものの、やがてそうなるのも時間の問題という気もします。私はそうなってほしくありません。キブツの集団生活の中で、給与に格差が生じるのは健全ではないからです。


教育分野の変化

カブリでは、1985年に、それまでの「子供の家」における共同就寝制度が廃止され、各家庭の両親の元で眠る制度に替わりました。

1985年までは、子供たちは夜も「子供の家」の寝室で寝ていました。子供達が親の家で過ごすのは、夕方の4時半から7時までの、2時間半ほどで、それ以 外の時間は仲間とずっと一緒でした。子供達がまだ小さなうちは、毎晩どの親も子供につきそって「子供の家」に行き、枕元でお話をしたり歌をうたったりし て、おやすみを言ったものです。

かつて、キブツ独特のこのような共同保育は評価されていました。この制度の元で育ったメンバーの中には、今でもあのころを懐かしむ人たちもいます。けれど も中には、辛い思い出しか残っていないメンバーもいます。おそらく夜中の恐怖心や集団生活になじめなかった子供たちとその親なのでしょう。

私は18歳から20歳まで軍隊に行き、その後カブリを離れ、15年間街に住んでいました。しかし、1985年に一児の母親としては、我が子と一つの屋根の下で寝られるのは嬉しいことです。カブリの子供達が各家庭で寝るようになってから10年が経ちます。この間、有形無形の変化や波紋が生じてきていることは確かなことです。

また、このような制度の変化に伴い、保育内容の一つ一つが次第に共同から個人家庭へと移行しつつあります。子供の食事についても衣類についても、家庭の責任が大きくなっています。子供が病気になった場合の看護も、保母ではなく母親が当たるようになってきています。

これらの変化は、キブツにおける家庭の役割を大きなものに変えました。特にキブツにおける女性の役割や活動に大きな影響を与えました。

女性たちは夜、幼い子供たちを家に残して外に出ることをしなくなりました。その結果として、主として夜の時間帯に行われる各種の文化活動や総会に出かける女性が減りました。そうして自然に、メンバー同士が顔を合わせる機会も減りました。カブリでは夕食もまた、各家庭で取るようになりましたので、食堂へ足を運ぶメンバーも減りました。

カブリの学校は長い間、カブリに住む子供たちのためのものでした。それは小さな学校でした。私たちの学年は17名ほどでした。生まれてから18歳になるまで、私はその集団で育ちました。その中で私たちは一般の学科教育だけでなく、労働の意義や共同体の価値についての学習も重ねてきました。

今日、かぶりの学校はすっかり変わりました。カブリの子供たちだけでなく、周辺のキブツの子供たち、街の子供たちも通ってくるとても大きな学校になったのです。

私は現在の新しい学校には数多くの利点もあると思っています。教師と生徒の密接な関係を尊重した「こじんまりした学校」の利点と、数多くの子供達が交流 し、子供たちに多くの選択肢を与えることのできる「幅広い大きな学校」の利点の両方を失わないよう、常により良い方法を模索し、試行錯誤を繰り返しなが ら、努力してます。

クラス担任の役割は難しく大変です。しかし私は全体として言えば、現在のカブリの学校に満足しています。


食生活分野の変化

最近のメンバー投票で、 カブリの食事の在り方も変わりました。食費を各個人に分配し、個人に支給された予算の中から、おのおのが食事のたびにカードで食事代を払っていくというシステムが導入されたのです。この制度に賛成した人達は、このようにすれば、残飯を少なくすることが出来、無駄が省かれ分、毎食の献立を豊かにすることが出来ると出張しました。また、好ましいとこだと言えないが、やむを得ないことで、少しずつ慣れていくしかないとも出張しました。

私の家族は、この食堂改革案に全員反対しました。特に創設世代である私の父にはとても受け入れることが出来ない内容で、この決定は父親の精神状態にまで影響しているようです。投票で破れた私たち反対派は、キブツの食堂は単に食事をするだけのための場所ではないと出張しました。食堂はメンバーたちが顔を合わせ、交流する共同生活にとっての大切な場所なのです。また先月の総会では、食堂での夕食提供そのものが打ち切りになりました。多くの人たちが家庭で夕食を取るようになっていたため、夜の食堂はコーヒーを出すクラブとすることになったのです。



総会の変化

かつては、金曜日の夜に食堂で開催される総会に多くの人々が出席していました。食堂が満席に近かった総会を私は覚えています。それぞれに決まった席があり、いつも友人のそばに座り、おしゃべりしたり、笑ったり、人の意見に耳を傾けたり、討議に参加したりしたものです。

しかし年月と共に総会に出席する人々の数は減っていきました。これもまた、カブリだけでなく、多くのキブツに共通する現象でした。同士的意識の薄れ、無関心、テレビの導入、子供の自宅就寝など、いくつもの理由があげらています。

現在のカブリでは、平均して30名ほどのメンバーしか総会に出席してません。そのために場所も食堂からクラブハウスに変わりました。総会の模様は有線テレビを通して各家庭に放映されます。
例えば数ヶ月前の総会では、バナナ畑での重労働にタイ人労働者を雇うかかどうかが議題でした。ほんのわずかな出席者が、このような大事な議題を決定してしますのです。全員参加による直接民主主義は、キブツの原則の一つでしたが、今日はすでに、たいした意味のない形だけのものとなっています。



総会の変化

所有と消費の分野でも、個人の自由を認める領域はどんどん広がっています。ここでは一、二例をあげてみます。メンバーが私的に使用する乗用車の運用はこれまだ、すべて運輸係りの手に委ねられてきました。メンバーが車の利用を希望すると、係りが調整を行い、手配し ていました。各メンバーは、各人の個人予算の中から、走行時間と距離により、経費を払うというシステムです。つまり車のような大きなものは、キブツの共同 所有になっていました。

この原則は今でも廃止されたわけではありません。ところが最近の総会で、個人的に車を購入することのできるメンーバーは、自家用車を所有しても良い、ということになったのです。メンバーがキブツから支給される予算の範囲では、とても車を買うことなどできません。車を購入し、かつ燃料および維持費を捻出できるということは、キブツ以外からの収入があることを意味しています。海外旅行についても同様のことが言えます。かつて海外旅行はキブツが経費を負担し、順番に出かけていく、ということになっていました。

けれども今日は、個人が旅費を調達し、希望すれば、いつでも旅行に出かけることが可能です。以前とは異なり今日では、あなたのその旅費をどこからどうやって調達したのかなどと訪ねられることもありません。


カブリの新しい動き

3年前、食費の個人配分問題が持ち上がったとき、古いメンバーの一人が次のような出張をしました。「キブツが変わっていくことはやむを得ないことだ。けれども、何か問題が出てくるとそれを改革し、次にまた問題が出てくると今度はそれに取りかかる、とい うようなその場その場の対応は望ましくない。私たちの生活すべてをもう一度すべて見直したらどうだろう。私たちは何に満足し、何に不満なのか。改革の価値 は何であり、何を改革したいのか」

1995年3月、「リーダーチーム」というメンバーの集まりが作られました。彼らは外部からカウンセラーを招き、その助けをかりながら議論を重ねました。今、自分たちは何を信じ、どのような生活を望んでいるのかについて、話し合いを続けたのです。その結果、第一段階として、「私たちは今後も集団生活を継続していきたい」という総意が表明しました。

現在は第2段階問題を検討中です。
1.キブツの組織に関する提言。
2.労働と生計について。
3.消費について。

「1」のキブツの組織に関する提言の中では、一番大きな変革は「総会の廃止」です。

現在のところ、メンバー全員には投票権があります。けれども、先に言いましたように、実際には投票権を行使しない人たちの方が圧倒的に増えてます。そこでこれまでの直接民主制に変わり、彼らに決定権を預けるという改革案が生まれました。この改革案の焦点は、直接民主制を諦める、という点にあります。


社会や国家、そして世界も常に変化しています。キブツもまた、例外ではあ得りません。もそもキブツが変革を受け入れず、かたくなに過去に固執していれば、死んだも同然の社会となっていくことでしょう。私は保守的な性格ですから、これらの変革を好みませんし、ついていけないと思うとこともあります。けれども変わらざるを得ないのがキブツの現実であり、私 はそれを受け入れるよりはありません。ただ私は、できるだけ良い方法で変化していき、共同体としての生活が続いていくことを説に望んでいます。

sábado, 14 de agosto de 2010

o fato e o pensamento

de
o eu
que não conhece
de que isto é "um pensamento meu"
para
o eu
que conhece
de que isto é "um pensamento meu"

"o pensamento humano"
tenta captar o fato/o real

aquilo que foi captado é um
"o pensamento humano"

o fato/o real
um contínuo acontecimentos
que 
de momentos em momentos
vão se tornando
coisas do passado

terça-feira, 23 de fevereiro de 2010

QUALIA

(Gustavo Leal-Toledo)

Nas palavras de Güven Güzeldere:

Todos nós temos, aparentemente, um conhecimento em primeira mão, imediato e direto da rica fenomenologia das cores, sons, sabores, aromas e sensações táteis que enriquecem nossas experiências – as qualia. Todos esses elementos constituem um modo específico de ser para cada indivíduo; eles determinam, de acordo com a famosa frase de Thomas Nagel, como é ser aquele indivíduo.

Qualia (plural de quale) é o nome que se dá na filosofia da mente para o aspecto qualitativo das nossas experiências. É como é experenciar o azul, qual a sensação de ouvir uma música, qual o odor que uma rosa tem para você, como é sentir dor em seu pé esquerdo, qual é a sensação de ter ódio de alguém etc. Alguns filósofos não fazem uma distinção forte entre qualia e consciência. David Chalmers, por exemplo, nos diz que

Diversos termos e frases alternativos indicam aproximadamente a mesma classe de fenômenos que são designados por “consciência” em seu sentido central. Tais [termos e frases] incluem “experiência”, “qualia”, “fenomenologia”, “experiência subjetiva” e “como é ser”

No entanto, é possível fazer uma distinção entre qualia e consciência, principalmente se você acredita em percepções inconscientes, pois estas não deixariam de ter um aspecto qualitativo só pelo fato de não serem conscientes. Mas a relação entre qualia e consciência é forte o suficiente para que ambas sejam tratadas juntas como sendo o aspecto qualitativo de uma experiência que é tida como subjetiva. Ou seja, ninguém, além de você mesmo, pode saber como é o azul que você experencia, como é o ódio que você sente. Como tal as qualia são tidas como inefáveis, não há como dizer a outra pessoa como é a experiência qualitativa que tenho. O exemplo mais comum disso é o que diz que é impossível falar para um cego como são as cores ou gesticular para um surdo como é ouvir uma música. Nas palavras comumente citadas, “se você tem que perguntar, você nunca vai saber o que é”. Estas experiências são experiências qualitativas conscientes que só podem ser acessadas, como queria Nagel, de um ponto de vista de primeira pessoa e nunca podem ser traduzidas para um linguajar objetivo de terceira pessoa. Não podemos explicar como é ver o azul do céu. Ao mesmo tempo em que é impossível negar a existência de tais fatos é também impossível estar errado sobre eles. Não posso achar que estou vendo azul mas, na verdade, estar vendo vermelho, achar que estou sentindo uma dor forte no braço esquerdo mas, na verdade, não estar sentindo nada. Só que aquele caráter inefável das qualia leva-nos ao problema de se realmente sabemos do que estamos falando. Além disso, é extremamente difícil dizer o que poderiam ser estas qualia do ponto de vista materialista já que elas parecem se esquivar de qualquer explicação em terceira pessoa.
Para tornar o problema ainda mais complicado, as qualia são muitas vezes tidas como causalmente ineficazes, ou seja, elas não alterariam em nada nosso comportamento ou o funcionamento do nosso cérebro. À primeira vista isto pode parecer muito estranho, como nossa experiência consciente não pode alterar o nosso comportamento? O problema aqui é que as teorias em que as qualia alteram o comportamento chegaram a um “beco sem saída”. Não parecia fazer sentido considerar as qualia como algo físico. Como dizer que o azul que experiencio, a dor e o amor que sinto são coisas físicas em meu cérebro, com um lugar, uma massa, uma cor e um tamanho? Ao mesmo tempo, se as qualia não forem físicas como elas são capazes de causar algo físico? Isto iria contra o princípio da física segundo o qual o mundo físico é causalmente fechado. Mesmo que este princípio estivesse errado, é muito difícil explicar como duas substâncias completamente diferentes poderiam interagir. Nas palavras de Dennett e Hofstadter:

Desde a primeira luta de Descartes com isto, o interacionismo tem tido o problema aparentemente insuperável de explicar como um evento sem propriedades físicas – sem massa, sem carga, sem localização, sem velocidade – poderia fazer uma diferença física no cérebro (ou em qualquer outro lugar).

As dificuldades em responder estas questões levaram os dualistas para o dualismo de propriedades. As qualia passaram a ser consideradas como propriedades não-físicas e causalmente ineficazes.
O problema se torna ainda mais complicado ao notarmos que as qualia, que são consideradas por muitos como algo que nós temos um acesso imediato e inquestionável, foram consideradas por alguns como simplesmente inexistentes. O problema surge quando nos perguntamos o que são as qualia, de que elas são feitas, qual o estatuto ontológico delas. Responder que elas são uma substância mental imaterial não é mais aceito, resta-nos, então, de uma maneira geral, o dualismo de propriedades e o materialismo. Para um epifenomenalista, que é uma forma de dualismo de propriedades, todas as nossas ações e pensamentos são determinados pelo nosso cérebro do mesmo modo como um materialista iria afirmar. Mas um epifenomenalista não para por aí, ele diz que, a partir de um certo grau de complexidade do cérebro, os fenômenos mentais aparecem ou emergem. Assim, os fenômenos mentais são epi-fenômenos, ou seja, fenômenos que estão acima ou além. Os eventos mentais seriam como que meros coadjuvantes, eles seriam causados por eventos cerebrais complexos e não teriam nenhum papel específico a interpretar. Para os epifenomenalistas a mente não tem nenhum poder causal. Churchland nos ajuda a compreender esta teoria falando que, para eles, os fenômenos mentais são como uma espécie de faísca ou lampejo que acontece em cérebros devidamente estruturados. Assim, você tem experiências qualitativas, mas estas mesmas experiências não têm nenhum papel causal. A minha vontade de pegar uma caneta e a minha ação de ir e pegar a caneta não tem relação causal entre si. Na verdade, tanto esta vontade quanto esta ação foram causadas por um mesmo evento físico no cérebro. Já o dualismo naturalista também afirma que a mente não causa nada de físico, mas defende que ela é uma propriedade fundamental do mundo, assim como a massa e a carga elétrica. Deste modo, ela não seria uma espécie de sub-produto do cérebro, como é para os epifenomenalistas, e sim uma propriedade básica do mundo. Aceitar qualquer tipo de dualismo de propriedades é aceitar que nossas experiências conscientes não podem influenciar em nada o nosso comportamento.
Além do dualismo de propriedades temos as diversas formas de materialismo. As teorias da identidade, de um modo geral, identificam a mente ao cérebro seja reduzindo a mente a estados cerebrais ou simplesmente a eliminando. Já para o funcionalismo uma mente é uma mente porque funciona como tal, daí o nome funcionalismo, não importa qual a constituição interna que permita tal funcionamento. O problema aqui seria dizer o que que as qualia são de um ponto de vista materialista. A falta de habilidade que os materialistas tem para tratar das qualia sempre foi uma crítica comum dos dualistas. Muitas vezes estas críticas foram escritas em forma de experimentos de pensamentos, sobre tais experimentos Polger nos diz:

Estes experimentos de pensamento, e muitos outros, têm a função de colocar as questões sobre a natureza e a eficácia causal da consciência em uma forma particularmente evidente. Colocando-nos face a face com entidades que exemplificam nossas teorias, os experimentos de pensamento nos forçam a pensar cuidadosamente nas explicações propostas sobre a mente e a consciência.
É claro que nenhum experimento de pensamento deve ser conduzido no vácuo. O propósito de tais considerações é salientar os comprometimentos, condições e advertências às várias teorias sobre a mente e a consciência.

Tais experimentos são muito comuns na filosofia da mente, podemos citar o experimento das qualia invertidas, qualia ausentes, qualia evanescente, dos zumbis, de Mary, qualia congeladas, qualia fatiadas, quarto chinês, dentre outros. A maioria destes experimentos foi utilizada para atacar o materialismo, mas há no materialismo tentativas de explicar o que são as qualia. Daniel Dennett, por exemplo, foi inclusive considerado com alguém que não acredita nas qualia, o que não é exatamente verdade. O que ele diz é que isto que os filósofos chamam de qualia, estas propriedades qualitativas intrínsecas, não existem. O que há são nossos julgamentos, nossas decisões, nossa memória, nossos pensamentos sobre as qualia e não as próprias qualia enquanto tais. Quando dizemos que ontem o céu estava um lindo azul não estamos nos referindo a uma propriedade qualitativa intrínseca de nossa mente e sim a uma memória de um julgamento. O que estamos dizendo é que lembro que ontem julguei que o céu estava um lindo azul. Assim, Dennett pode dizer:

Você parece achar que há uma diferença entre o pensamento (julgamento, decisão, defesa convicta) de que alguma coisa é rosa para você, e o fato de que algo realmente parece ser rosa para você. Mas não há diferença. Algo como “realmente parecer” não pode ser considerado um fenômeno para além do fenômeno de julgar de uma maneira ou de outra que algo é o caso.

Tal visão inovadora não passou despercebida. Chalmers considera que Dennett sequer tratou do problema difícil, para ele, Dennett só fez uma teoria da capacidade de reportar estados internos e comandar o comportamento. Já Dennett considera que tratou das qualia do único modo que é possível tratar sem ter que pressupor propriedades intrínsecas misteriosas. As discussões sobre as qualia ainda permanecem, abrangendo desde o que elas são até se elas realmente existem. Não parece haver, em um futuro próximo, nenhuma via de consenso, o que torna este um dos temas mais frutíferos da filosofia da mente.

domingo, 3 de janeiro de 2010

ser enriquecido

pensando da onde vem
a verdadeira fartura
a verdadeira abundância
o verdadeiro enriquecimento...

entre as duas condutas abaixo:
a) usar o si em prol do próximo
b) usar o próximo em prol de si

ficaria com o primeiro..
talvez possamos afirmar que seja isso um instinto=razão verdadeira

e deve ser possível, sim
organizar a sociedade humana com base nisso

a sociedade atual esta organizada
através da competição, perde/ganha, lucro/prejuizo, inferior/superior,
como se o individualismo, o lucro so meu
estivesse presente em todos e quaisquer pessoa