sábado, 29 de agosto de 2009

sobre "ideia fixa", ou "fixar ideia"


ごく単純化して考えてみると、

<決めつけ>という言葉の意味は、大体の人が知っている。
a maioria das pessoas conhecem (ou sabem) o significado da palavra

日々の生活の中で「ああ、あのときの自分は決めつけていたな」と振り返って思う、そういう人は多いと思う。
penso que muitos, dentro do dia a da da vida contidiana, faz a reflexao e pensa: "puxa, o eu daquele momento estava mesmo como ideia fixa",

さらに、「あの人は冷たい人だ」とか「あの人は自分を嫌っている」などと、<決めつけ>を持って人を見ていると、自分の中にその人に対する嫌悪感や対立感などの感情が起こる。そういうことも何となく分かってくる。



そういう体験から、自分の中に人に対する<決めつけ>があると、人とうまくやれない、人と仲良くできない、というようなことも理解されてくる。<決めつけの有る無し>が、自分(の人生)にとって大きなテーマのように思えてくる。

さらに<決めつけ>は、個人と個人の対立を生むばかりではなく、組織間の、国家間の、民族間の、宗派間の対立・戦争にまで発展する。そう考えると、人の中の<決めつけ>というのは、人間社会にとっても重大なテーマのように思えてくる。

こういうふうに理解が進んだとしても、それはやはり頭での理解であって、そのように理解する人の中の<決めつけ>は無くなるものではないだろう。

<決めつけ>という言葉を<人間の思い・考えの事実化>と言い換えてみると、いろいろ理解しやすい面もあるだろうが、言い換えたからといって、それは頭の理解であることには変わらない。

相変わらす、人と仲良くできない、争いごとは絶えない。

まあそれでも、ある程度理解が進むと、自分の中に何か<決めつけ>がありそうだと思うことも多くなり、いろいろな具体例で、「自分はこういう<決めつけ>を持っていた」みたいな説明を自分に施すこともできるようにはなるだろう。

でもそれも、後からの説明(後の祭り)で、相変わらずその人の中に<決めつけ>は続々発生する。

本当に、自分の中に<決めつけ>の起こらない、<決めつけ>のない自分になるには?・・「自分は決めつけていた」として、何か自分を捉えたつもりになって、それ以上、その時の自分の実際を観ようとしない、検べようとしないならば、漠然と自分について何か思ったというだけのことだろう。

「自分は決めつけていた」と口では言っていても、決めつけている実際の自分を知らない、知ろうとしていないということではないか。また、「決めつけている」ということがどういうことなのか、分かったつもりになっているのではないか。

何故?どうなっているか?などと頭で考える前に、先ずは、「決めつけている」と自分が思う(捉えている)自分の実際をよく観ることではないか。


「それは自分の感覚だ」と口で言う場合でも、当の自分の感覚をどれだけよく観て、そう言うのか。「自覚が無かった」と言う場合でも、「自覚が無い」と思う自分の実際をどれだけよく観て、そう言うのか。自覚があるとか無いとか、何か分かったつもりになっているのではないか。

「自分の感覚である」という自覚から研鑽は始まるのだろう。そして、その「自覚された自分の感覚」を素材として研鑽は進んでいくのではないか。そう考えるならば、先ずは自分の感覚の実際をよく観て検べることではないか。