terça-feira, 13 de janeiro de 2009

carta aberta - miyati

もみじの葉の色がましに濃くなってきているようにみえる。12月にはいった。自動解任期だ。どんな半期だったか、ふりかえってみたい。


<こんな状態のじぶんになるなんて、ついこの前まで考えてもなかった>
 ついこの間まで、「じぶんからは鈴鹿の連中のところには行かない」と決めていたのに、最近は講演会とか、研鑽科学研究所のサロンとかに行くようになった。“鈴鹿の連中”といった気持ちがまったく消えたとは思わないけど。自分のどこに焦点をあてたらいいかが、はっきりしてきていて、その気持ちも(観念・感覚)のところで立ち止まらなくなったように思う。


 2000年ごろ、いっしょに実顕地つくりをやってきたと思ってきた人達が次々と調正機関を離れると意志表示し、出て行った。実顕地は間違っている”というけど、それをつくってきた自分たちも入っているではないか。その間違ったものを置いていくなんて無責任だ」と思った。そのころには、外からの反ヤマギシキャンペーンは下地になってはいたが、内から調正所批判が起こってきていた。その中で、その調正所を作ってきていたと思っていた人が出て行くのが、一番きつかった。口では離れていく人に「それぞれの生き方があるからね・・・」といいながら、よくも出て行けるものだ」と思っていた。


 一方で出て行く人のなかに、試験場を作ろうと言う人や、研鑽学校でやっていた人がいた。「イズム理念の究明は、その人達にお任せ」という気持ちでやっていたので、これからが思いやられた。


 そのころ、いくつも世話係をやっていて、調整研などでも、「もう世話係をおりたらどうか」という意見がてできていて、2000年12月で豊里実顕地の調正世話係を離れた。その時の自分の覚悟としては、一構成員として、イズム生活(ヤマギシズムによる実顕地生活)をしていく、そうしたらどういうことになるか、調べていこうという気持ちがあったと思う。


 以来、10年、山岸巳代蔵全集出版が始まり、実顕地と鈴鹿の有志による共同作業がはじまり、鈴鹿の人達に違和感があっても、イズムの研究というところでは編集委員になっている人達の間で、研究・実験があるはずだと思っていた。僕は、一員として、そこからもたされるもので、やっていけばいい、でも、ここ数年、「あれ、どうもそういうような現れではないかな」と思いはじめてきた。


<こころが、揺さぶられる//はあった>
 2008年春、ブラジル実顕地から、箕輪ケイゴ・佳代一家が実顕地交流で来日した。実顕地を出るかどうかまで考えた末、選んだ//だった。始め、研鑽学校に入学して、その後、豊里実顕地肉牛部で職場交流。途中、鈴鹿のセミナーに参加。そのあと、赤松さんといっしょに、どうだったかと聞いたとき、「仕事一筋」と思っていた惠吾さんから「いったい、いままでぼくは何をしてきたか。研鑽はどういうことか、ここをもっとしらべていきたい」みたいな感想を言っていて、びっくり。「そうだよ、そこからだと思う」とそのとき思った。それから惠吾さんは頻繁に鈴鹿のセミナーに通いはじめ、夏以降は鈴鹿に居を移し、そこで交流する形になった。奥さんの佳代さんも、鈴鹿のセミナーに参加し、夫婦で"研鑽とはどういうことか”しらべはじめているように感じられた。「鈴鹿のセミナーに参加すると実顕地批判するようになる」とそのころぼくは思っていた。でも、見ていると、そういうものは感じなかった。でも、彼らの気持ちから実顕地でやっていることにあまり、関心がなくなっている感じがした。


 また、小出農夫也夫妻が来日したとき、事情で研鑽学校に参加できなかった恵子夫人が鈴鹿の研鑽科学研究所のセミナーに一週間参加した。帰ってきて、豊里実顕地のイズム生活研に参加した時の感想をメールで送ってもらった。恵子さんはそんなじぶんの気持ちをじぶんの方から、僕なんぞに話してくるなんて思っていなかったので、心に残っている。内容は他人の人の話しを「そうじゃない」と聞いていて、そう気付かないで聞いている自分を発見したといったことだったと思う。なにか、大事なところに、焦点があたっていると思った。それをとうして、僕は鈴鹿のセミナーには何か研鑽の核心にせまるものがあるのではないかと思った。こころが揺さぶられていたと思う。“鈴鹿”には、違和感が消えてはいなかったが。


<まあ、なるようになるさといった気持ちが「そんなことでいいのか」となったキッカケ>
 8月20日ころ、夏風邪がだらだら長引いて、微熱が続いていた。その時、本庁の各専門部の係役の人達での研鑽会があった。自分はそのメンバーだったけど、その日は、出席しなかった。あとで聞いてみると、本庁の研鑽会で「8月の中頃、鈴鹿から小野惟史さんを呼んで大学部OBの人達などを対象に“青年集中研”があった。それは坂井和貴さんが、だれとも研鑽しないで、勝手にやった。しかも相談したら反対されると思って、意識的に、そうしたといっている。そういう事を世話係の立場で今後ともやるなら、坂井和貴さんは辞めてもらわなければならない。大学部を豊里実顕地でやっていくかどうかも検討したい」といったことが話題になったらしい。


 そのあと、坂井和貴さんが、そのことについてつぎのように考えていることを知った。ーー今の実顕地の運営上、そうした進め方に問題があると捉える人が多いのは僕も承知していますが、殆どの人がその進め方だけを問題にします。「なぜ、問題があると分っていながらそいう進め方をせざるを得なかったのか?」、「そうまでして。やろうとしたことは何なのか?」「やってみて、青年達にとってはどうだったのか?」そこを正面から突いてくる人はいません。


 それで、坂井かずきさんとも直接話しを聞いた。そして集中研に参加した青年の感想文も読むことが出来た。それは、以下のようなものだった。


 ーーーー今回は自分の中でひとつ発見があった。今迄、何となくだけど、「思いがなければ事実は見える(知り得る)もの」、だと、思ってきた。集中研で、いくつかのテーマで考えて、自分は自分の見え方、考え方で物事を見ていることがはっきりした。私の見ている物事は、私のとらえているもので。事実ではないということ。


 小野さんが、コップの例で「それをコップにしていないかどうか」というようなことを言った。もう少し考えたときの、自分はそれをコップと見ている時に、相手がバケツと言ったら、自分は「相手がバケツと思ったんだな、コップだけど」と思うなと思った。自分の見方を、それ(事実)としていた。この見方、考え方はもう反射みたいでに私の思考回路に組み込まれていると思った。

 自分の見方で見ているという自覚があれば(これも一つの感覚のような気がしている)、人の言っていることも、少しはその人が何を言おうとしているか、聞けそうだ。聞くのも自分の聞き方があるだろうな。まだ気付いてはいないけど。

「広島に原爆が落ちたのは事実か」というテーマで考えたとき、事実だとしているのは自分だと思った。でも、自分の捉え方は、ちょっとぶっ飛んでいる感じがあって、(大分と大雑把な捉え方)、じゃあ、事実は何か?」と、もっと細かくみていくことが必要と思う。
今は、それこそ感覚で自分が事実としていたと捉えている感じがしている。

読んでみて、これはどういうことかを調べた結果どうなったんだろうと思った。特講以来、“研鑽する”といってやって来ているが、なにかこの感想文から、”しらべていう”という核心にせまっているようだどか、伸びやかさが感じられた。

青年達が夏に参加した「集中研」に興味がでてきた。でも、鈴鹿については、そのの場所にもち数来たく無いと思っている自分だ。いくら、なにか核心に触れることやっていると感じても、じぶんの中のプライドとか、「俺たちは俺たちで、未熟なりにもやってきたし、これからもそれで行こうと思っている」という気持ちも一方でむくむくもたげてくるのが分った。

その後も、坂井和貴さんも気持ちを聞きながら、その頃、微熱が続いているなかで、多少もうろうとしながら、「いつでも、まあいいか」でやっていられないかなと思い始めた。そのうち、鈴鹿の小野惟史さんに豊里実顕地に来てもらって大人対象の集中研をやる話しが出て来た。「鈴鹿には行かないけど、来てくれるなら参加しよう」と決めた。いつかは、自分の中の”鈴鹿のひとたち”という思いと向き合うときがくるとは思っていたが、それが「今」だとはっきり思った。そのとき、一歩ふみだしたのかなあ、その段階の、じぶんとして。

<「集中研に参加する」と決めてから、思わぬ事が次々と・・・」>

 大人の「集中研」は、9月末に5日間、午後一時間から午後10時半まで、緑地会館で、参加費一万円でやることにした。

これに、「参加したい」と提案すると、「なぜ豊里実顕地でやるのか、やってほしく無い、鈴鹿にそういうコースがあるのだから、そこへ行けばいい」と調整世話掛かりの人たちの意見だった。個人でも話ししたし、参加希望の人たちと調正世話係の人たちとも何回か話し合った。参加費を提案したら、「出しません」ということだった。「豊里実顕地で9月にやる集中研に参加したいという自分の意志が変わっていないので、出して欲しい」と返事したが、実際に今でも受け取っていない。その過程で一番大きかったのは、身近な人たちから、「なぜ参加するのか、宮地がそれに参加するというのは、どういうことになるのか、周囲への影響は考えないのか」という問いかけでした。「鈴鹿の杉江優治のブログを読めば、鈴鹿が実顕地を切り崩そうとしていることがわかる。実際にそういう動きもしている。集中研に参加することは、鈴鹿のそうした動きに加熱することになりかねないとも問われた。ブログを読み、読んでみたら自分でも「そうだよな、こんなこと書いてあったらそう思うよな」と問いかけてくれる人の気持ちも思った。身近な人たちに対して、どんなにがっかりさせることになるか。この人なしに、じぶんの生き方はないとまで思っている人の信頼を裏切ることになりかねない。迷いに迷った。食事も喉をとおらない感じの時もあった。或る日、「参加するの、やめよう」と決めた。決めたところから、かえって、「自分はなぜ参加したいのかとおもっているのか」また反対に「なぜ、参加しないと決めたのか」この問いかけの前に立たされた感じがした。そこから、必死で考えた。じぶんは、本当になにをしたいのか」。青年集中研の感想文のことが出て来た。身近の人達の関係をぶち壊したいのか。「そんなことはこれっぽちも思っていない」「でも参加したら、結果としてそういうことになるんだよ」「じぶんがやりたいのは、自分がどんな人とも、隔てなく仲良く暮らしたいということで、そこは揺るぎようがない、そこにいたる核心が集中研にはありそうに思う。そのときに、そうなるかならないかも、わからない周囲への配慮を優先して、今集中研に参加しなきゃ、ずっと後悔、もやもやしたものを自分の中に残すことになる。」“参加しない”が“参加する”になった瞬間だった。「集中研があるから参加す」から、「自分の意志で参加する」に変わった瞬間のようにも思う。鈴鹿への毛嫌いがなくなったわけではないが。このことは大きかった。

<一番、身近な妻とは、どんなだったかなあ>

“奥様”の気持ちをどのくらい感じながらやってきたのかなあ。いつもの調子でマイペースで、勝手にどんどん突き進んでいたかもしれないなあ。このへんは、本人にじっくり、ほんとにじっくり聴いてみないと、分らないと思ってる。でも、この間、じぶんのこころに課したことがある。それは、妻には、いま自分の心に湧いてきたことは、他人の批判であれ、愚痴であれ、なんであれ、なるべくそのまま、湧いて来たまま、聞いてもらおうということだった。なんども同じことを/言のように言っていると「もういい、聞きたく無い。そんなにできていないことをあげつらうなら、じぶんがやったらいいじゃないの」とか、よく聞かされた。

或る朝、目が覚めたとき、ぼくがなにも言っていないのに、小波が「集中研、集中研というけど、あなたの考えを他人に押し付けているように聞こえる。一人一人、その人が考えていることもあるし、その人の段階というものがある。それを見ていったほうがいいんじゃない」と突然、しゃべった。どうも、どこかで考えたことをひょっこり口に出した感じがした。「おっ、なにかどこかの公式見解のようだな」と思った。その後、自分の中で考えた。


 二人の間で意見が違うというだけしかなかったら、どんなものだろう。ぼくは、なにがしたいのか。ぼくは小波が受け取るかどうか、どう受け取るかは別にして、自分の気持ちは出していこうとしている。受け取った小波が、つぎどうするかは彼女自身にかかっている。そうだとしたら、まず、この自分のきもちをもう一度、小波に聴いてみて、彼女がどう思うのか確かめようと思った。

その日の夜、小波にぼくの気持ちを伝えた。「僕は、じぶんのなかで出て来る考えやそれに伴う気持ちを、その時の気分をふくめて、きみに出して行こうと思っている。そうおもっているけど、みみはどう思う?彼女は少し考えて「そういのがなかったらやっていけないと思う」と言った。そう聞いたので、今度は僕がそうしたら、正しい意見、まとまった意見とかだけでなく、なぜそう思うようになったか、その思ったままの気持ちをありのままに言ってほしい」といった。「そうね」とか返事がかえったきたように思う。 



<豊里実顕地での“集中研に参加してみて>
霧が、晴れたときのような感動みたいなものがあった。でも、感激といった感じはなかった。台風一過。目の前のものにいちいちなぎ倒されてりしてるのに、自然界の営みはんいごともなかったように晴れ晴れとしている、そう感じた。

17歳のとき受けた特講以来、もう一歩ふみこめないで来たことに、はっきりと一歩踏み込むことができた感じがする。2000年以来、内外からの「いまのままではだめだ」と言う空気のなかで、係役を離れた。離れたうえで、気持ちとしては、実顕地の一員として、そこのところから実顕地生活(一体生活、イズム生活)をやっていこうと思った。そのとき、欠かせないのに研鑽学校と考えた。2000年の春に入学して、ますますそうしようと思った。それで9年間、毎年、研鑽学校に入学してきた。途中、「おれは、ホントに無我執の人になりたいと思っているのか」と自問するときがあった。またそのころ、「もしかしたら、おれはなりたいと思っているけど、なれると思っていないのではないか」とも自問した。答えは「こんなおれだからこそ、毎年研鑽学校というしくみに入学することは不可欠で、そうしたとらわれやすい自分を見ていくため基本研や仲良し研をじぶんのイズム生活になくてはならないものとして位置づけること」を課した。そんなふうにやってきた。やることはやってきた。でも、自分の内面で日々新た、伸展していくものを感じない。なにか是もないと焦ってきた。ここ最近は山岸先生が晩年くどくまでにいっている“盲信”についても、その辺に核心がありそうだと感じてきた。でも、そこで、そのまわりをまわってはいるよようだけど、そこに焦点を当てられずにはがゆい思いをしてきた。なにかもやもやしていた。思いかけず参加した集中研でそこをこころゆくまで、しらべられた。そこからだったら、先がみえる、だから、大海原で泳いでも泳いでも、その先が見えないのではなく、「最先端の人」になれる、なれるが、いまの現状はあまりにも思い違いをしていることを”それはそうだ”とする世界に無意識に生きている、そのことを知って、そこに向かい合うところから初める。ちょっと今では気が遠くもなるけど、いやいや希望がある」研鑽していく//はに立ったか、立とうとしている、そんな感じだろうか。
 

 もうちょっというと、「研鑽とは話し合える状態になって、話し合う」と山岸先生もいっているが、この「話し合える状態とはどんな状態か」を正面から調べずに、頭のなかで「そうならなくては・・・」と努力しながら、話しあってきた。

実顕地の暮らしでも、ことあるごとに“研鑽しよう”“研鑽した”“研鑽会で一致した”とか当たり前につかっているけど、この“研鑽”とはどういうことか。「話し合える状態」にならっていえば、「研鑽できる状態」とはどういうことか、そこに焦点を当てて、しらべることをしてきたか、暮らしてきたか。そこがちがっていたら、すべてちがってしまう。そこに焦点をあてて、しらべていくことだと思った。今年、10回目の研鑽学校は、9月の集中研にふりかえて、いいと思っている。

<集中研のあと、切実におもったこと・・・>

いま研鑽学校をすすめている人達に、この集中研プログラムに触れてほしいということだった。参加したじぶんの感想からいうと、じかにこの研鑽会でしらべないと、身にしみて、しらべたということにはならないか。5日間で調べた感想を書くことはできる。読んでもらうこともできる。じっさい、ぼくも大学部生の集中研mの感想を読んで、こころに響くものがあった。でも、それはなにか「そういうものか、分った」という程度の段階のように思う。参加して、なるべくありのままのじぶんの思ったり、感じたりしていることを、粉飾なくだしながら、やっと気付いていった5日間だった。

研鑽学校は、2000年から10年かけて体勢をととのえてきた。(Ⅰ)から始まり、(Ⅱ)ができて、参加者も増えてきて、最近で研鑽学校(Ⅲ)が「第2の特講」という感想を言う人も多く、研鑽学校が充実してきたともいえるかもしれない。


小野惟史さんがに来てもらったやった集中研に参加した感想からいえば、「研鑽できる状態になって、研鑽する」というときに、’研鑽できる状態とはどういうことか”、ここのところが究明されないまま、“研鑽する”と思っても、願っているようにはいきにくいのではないか。いまの研鑽学校ではここのとことの究明を途中にしているように思った。2000年から、10年かけて鈴鹿でもイズム研究は相当つっこんでやられてきて、その成果が確実にあらわれてきていると感じた。あえて言えば、研鑽学校に、”研鑽学校0”というコースを設けてほしいとそのとき思った。それが、すぐ出来ないときは、研鑽科学プログラムにそれを設定することはできないか、そうしたことは、研鑽科学研究所と交流するとか、話しあうとか言う前に、いま研鑽学校の任についている人が、いまの研鑽プログラムに参加するところからはじめることではないか。いまのぼくの考えは、自分たちから鈴鹿のイズム究明の現状に触れにいく、そこから始めた方がいい、そこからはじめるものでないと、そのイズム究明の現状にふれられないと思う。青年達はいともあっけらかんとそこに触れていってしまう。大人との違いを感じる。

研鑽学校をすすめている人たちは、その話しをすると、「いずれ、そういうときが来ると思う、でも今ではないと思う。僕は、はっきり「今だ」と思うし、「自分たちから」と思っている。なぜ、そう思うのか、もっと話し合っていきたいという気持ちもがある。でも、そこで、止まってしまうという感想もある。それだったら、一人ひとりに聞いてみたい気持ちが膨らんでくるのを、どうしよと思いながら、一回じぶんを投げ出してみようとしている。

鈴鹿の研鑽科学研究所と実顕地は、いまは別々にやっていくという意見がある、鈴鹿とイズム究明というとこからいえば、ともに交流しながらやっていきたいという意見がある。またそのことが話題になったら、いろいろな意見がでてくると思う。そうしたら、どの意見が正しいとか、優っているとか、イズムにあっているとかあっていないとかの前に、なぜそう思うのか、各自じぶんのなかで起こっていることにありのままに注目して、そのところを出し合いながら、さらにじぶんと向き合いながら考えていくことはできないかなあ。

<どんどん変わっていく自分のこころと、どう付き合っていけばいいか>
ついこの間までは、こんなじぶんの内面を人前にさそうなんて思ってもいなかった。それが、「宮地一人の思い込みを他人に押し付けないでほしい」と避難されそうなことを、なんであえてするのか、まったくとまどっています。「ほんとうの研鑽といいながら、他人の話しをきこうとしない、そんなの見ていたら、考える気持ちさえおこらない」といった声も聞こえて来る。なぜ、あえてこんなことをするのか、なんの得になるのか、なにがやりたいのか。問いはあとから、あとから湧いてきます。今は12月、自動解任の月です。このあたりを見ていくのが、いまのやりどころかとおもっています。(つづく)

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